気ままにハダノ#26『陶工・三浦乾也』

「気ままにハダノ」では、秦野に関する情報を気ままにお届け!
今回は、秦野市にゆかりのある陶工・三浦乾也をご紹介!!
幕末から明治時代に活躍した陶工、造船家、元仙台藩士について、ぜひこの機会に関心を持ってください(^O^)/
三浦乾也(みうら けんや)とは?

三浦 乾也(みうら けんや、1821年4月5日(文政4年3月3日)‐ 1889年(明治22年)10月7日)は、幕末から明治時代に活躍した陶工、造船家、元仙台藩士です!
江戸に生まれたのち、すぐに里子へと出されて三浦姓となりました。
12歳の時に陶法を学び、17歳の時に五代目乾山(尾形乾山)と名乗った吉原の名手西村藐庵(にしむらみょうあん)の弟子となりました。
そこから陶工として活動するが、1853年(嘉永6年)黒船来航に際して陶工としての一時活動をやめ、海防の建白書や船の模型図を幕府に献上したところを阿部伊勢守の目にとまり、1854年(嘉永7年)8月から長崎で勝海舟らと共に造船術、金属加工技術などを学び、ガラスの製造法、溶鉱炉、反射炉、大砲技術などを習得。
その後、仙台に招聘されて総棟梁として帆船開成丸の建造に携わり、藩から士分を与えられ仙台藩士となりました。

仙台と江戸を往復する生活をしていた中で、朝敵であるとの嫌疑から検挙され1カ月半ほど投獄されるなどし、仙台藩士を辞職することを決意するが、新政府軍に敗北し藩政の実権が反対勢力に握られていたことで思いがけず改易に処されて藩士としての身分を失う。
そのような時、梶山良助の招きで1870年(明治3年)に相模国曽屋村十日市場(現・秦野市四ツ角付近)に窯を開くこととなります。

そこでは、趣味陶器・日用陶器のほかに工部省の注文で日本で初めて電信用のがいしを製造しました。

その後は、墨田区向島へ移って長命寺の境内に窯を開き、亡くなるまで陶工として活動しました。
この明治期の作品が陶工乾也として伝わるほとんどの作品となっています。
三浦乾也ゆかりの地

三浦乾也のゆかりの地として、秦野にあった窯跡は現在ありませんが、
晩年を過ごした墨田区にある旧居・窯跡には、その生涯が記されている看板が立っています!
お隣には、俳人・正岡子規が愛したとされる桜もち『山本や』もありますので、
ぜひお近くに来られた際には、行かれてみてはいかがでしょうか??(*´▽`*)

最後に…
いかがだったでしょうか??
2021年に生誕200年を迎え、本町公民館では記念展が行われるなど、今なお語り継がれている偉人となっております!
また、三浦乾也の凄いところは、その行動力と好奇心ですよね!
交通網のままならない時代において長崎や仙台にたびたび遠征して、陶工のみならず様々な技術習得に努めたところが尊敬すべき点だなぁと思いました^_^
もっと三浦乾也のことを知りたい方は偉人伝も制作されておりますので、気になる方はぜひご覧ください!
Written by Takumi

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