気ままにハダノ#35『秦野の飢餓を救った農業指導者・安居院庄七』

「気ままにハダノ」では、秦野に関する情報を気ままにお届け!

今回は、秦野の飢餓を救った農業指導者『安居院庄七』をご紹介!!
いま私たちが安心して暮らすことができている影の功労者です(`・ω・´)b

ぜひご覧ください!(^O^)/

「安居院庄七」とは?

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安居院 義道(あぐい よしみち)通称:安居院庄七(あぐい しょうしち)は、1789年(寛政元年)1月 – 1863年9月25日(文久3年8月13日)に生きた、江戸期の農業指導者及び報徳運動家です。

相模国大住郡蓑毛村(現・神奈川県秦野市蓑毛)に住む大山阿夫利神社の修験者をしていた朝田家の次男として生まれると、穀物商を営む安居院家に婿入りします。

結婚当初、商売は順調でしたが、米相場に手を染め、失敗を繰り返していきます。この頃の庄七は金儲けばかりを考える、「報徳」のかけらもない人物であったというから驚きです!

時は過ぎ、54歳の頃、お金に困っていた際に高利の借金を整理させ貧乏な農民を救済しているという二宮尊徳の話を耳にし、尋ねました。

この二宮尊徳とは、あの小学校によく建っている石造「二宮 金次郎」のご本人です!

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滞在中に面会できなかったものの、聞こえてくる尊徳の講話や、来訪者や門人たちの会話、門人同士の話から教えを学びとり、尊徳の姿に心を打たれます。

そして、一度死んだ気持ちになって人生のやり直しを決意。
門人たちから尊徳の教えを聞き、書物を書き写すなど猛勉強をしました。

秦野に戻ってからは、商売を再開。公正で質の良い品物を薄利多売することを心掛け財産を取り戻していきます。

また、その頃の秦野は、一揆こそないものの飢饉に見舞われ農民は苦しい生活を送っていました。
庄七は商売の合間を縫って、村人の救済と地域の復興に取り組み、「村人の協力」「助け合い」すなわち相互扶助を指導。

その後も、農業の最新技術・経営を学び普及し、協同の目的のため活動する組織づくりについて説き、75歳で亡くなるまで報徳思想の普及と飢饉に悩む村の復興に努めました。

安居院庄七とJA秦野

JA秦野では、HP内に「二宮尊徳・安居院庄七」のコーナーが設けられたり、同JA本所玄関前には、安居院庄七の歌碑が設立されるなど、彼らが築き上げた教えを今もなお受け継いでいます。

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「乱杭の 長し短し 人こころ 七に三たし五に五たすの十」
(らんくいの ながしみじかし ひとこころ しちにさんたしごにごたすのじゅう)

人は互いに理解し合い、助け合うこと、協同することで大きな力を発揮することができるという、今日の協同組合精神そのものの教えを説いています。

最後に…

いかがでしたでしょうか??

二宮金次郎という名は多くの人がご存じでしょうが、この人物が何を成し遂げたのか、そしてその教えを引き継いだ人々の功績を安居院庄七を通して、今回学ぶことができました!

また、安居院庄七の生きざまから、”人はいくつになってからもやり直すことができる”という人生の教訓も得られました^_^

後世にも彼らの教え、生き様を伝えていきたいですね♪

Written by Takum